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古寺巡礼

 日本史で受験を終えた次男の希望で、週末駆け足で奈良を巡ってきました。京都から電車に乗って、神奈川から東京に行くぐらいの距離にあるのに、恥ずかしながら、この歳で初めての奈良でした。

 奈良駅からはレンタカーで、誰れでも知っているような場所を次男の解説を聞きながら、廻ったのですが、最近の車は、CarPlayで、iPhoneに繋いで、ナビもMapを自在に使えるし、(ネットさえ繋がっていれば、)音楽も好き放題です。次男のリクエストで2018年に出た斉藤和義のベスト盤を聴きながら、なんだかタイムトラベルしているようでした(去年用事で江古田に行くのに久しぶりに山手線(外回り)に乗ったら、渋谷駅で、進行方向右側のドアが開き、原宿駅では、今度は左側のドアが開いたことに腰を抜かしたのですが、Mapの指示に従って、代々木駅で降り、総武線に乗り換えることしかできなかったはずの前方の階段を下ると、そこには改札口があって、大江戸線に乗り換えることができたのです。「不適切にもほどがある」の第1回で、バスから降りた阿部サダヲさんのような気分になっていました。)。


 たまたま最近オーディブルで推されたこともあって、予習のつもりで、古寺巡礼を聴いていたのですが、その文章の格調に魅入られ、眼でも追いかけたくなって、和辻哲郎の全集にも手を伸ばしてみました。一度朗読を聴いているので、ある程度内容を掴んでいるためか、寧ろ、表現、つまりは、文章の美しさに一層魅せられ、同時に、その永遠さに気付かされたように思いました。

 そして、和辻哲郎の全集には、「改訂序」という、関東大震災に触れるところから始まる昭和21年7月に書かれたオーティブルにはない端書きが付いているのですが、その中に、改訂版の発刊に至った事情の説明があり、「近く出征する身で生還は保ち難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった」と記されています。失礼を顧みなければ、ただ、仏像の曲線について、あれこれ情熱と若さをぶつけているだけの書だとさえ言えなくもない物だと思うのですが、その普遍性は、あるいは渇きに由来するものなのでしょうか。

 奈良公園に溢れる鹿の数を超えるオーバーツーリズムの人の群れに紛れながら、ふと、そんなことを考えました。