弁護士本田正男のBlog Page


 毎日聴いている音楽や、読んでいる本その他についての感想などを書いています。

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 弁護士としての活動については,所属する法律事務所(川崎総合法律事務所)のホームページなどをご参照ください。


ベイビー・ブローカー

 拠ない事情で、急遽出演することになって、共同親権をテーマにした今朝の日曜報道 THE PRIMEにお呼ばれされ、いつものように恥を晒してきました。

 といっても、ぼくは、ヒール、とまではいかなくても、メインのコメンテーターの櫻井よしこさんに弄られる役回りで、地上波で、これだけ時間を割いてくれるのも有り難いは、有り難かったのですが、やっぱり、テレビはテレビで、賛成は青ボタン、反対は赤ボタンみたいな非常に簡単に過ぎる要約になってしまう憾みがありました。日頃家族の問題、つまりは、人間に巣を食ったところで飯を食っている弁護士としては、法制度を変えるぐらいで解決できるような、そんなに簡単な事じゃないんですけど、って、生身の人間の関係性、妻と夫、子どもと親、どちらも、心が練れてないと通じないような性質のことなんですけど、とお伝えしたかったのですが、これまた人生と同じくらい難しくて、なかなか手が届かなかったような、もどかしい気持ちを残しました。

 日曜日などといっても、その後も、仕事で、幾つもの家族の現場に立ち会って来たのですが、夜は、チケットをもらっていたこともあって、ずっと前から予定していた是枝裕和監督の映画「ベイビー・ブローカー」を妻と娘と観て来ました。

 冒頭「羅生門」のラストから引き継いだような、あたかも、オマージュのような雨降りから始まり、「雨あがる」のエンディングのように結論を見せないことで希望を語るラストまで、すべてのカットと台詞と、その音楽と、その演出に、正に心が練れた人の語る意味が映っていて、カンヌだけでなく、すべての権威ある賞に相応しい作品でした(感動の余り、椅子の上で身を捩ったり、喉や鼻を鳴らして反応してしまったので、妻の隣に座っていた娘にも、後で、うるさ過ぎと注意されてしまいました。)。(「万引き家族」のとき以上に、)血がつながっているだけが家族ではない、むしろ、血がつながっていないからこそ、家族と呼ばれる集合体が本来持つその本質的な要素が炙り出されていると感じられました。

 フジテレビの廊下にも、ベイビー・ブローカーのボスターあちこちに貼ってありました。機会があれば、櫻井さんにも観てもらえればなぁと夢想します。

 

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 一つ前の記事で、Ob-La-Di, Ob-La-Da のことを書いていて、連想ゲームのように、自らの家庭に取材し、父子家庭の子育てを綴った藤村の「嵐」を思い出していました。あちらは、自動車の話でしたが、こちらは、お家の引越しの話です。

 この小説、背比べの場面から始まって、とても穏やかに家族の日常が淡々と描かれていくので、最初読み進めるについて、必然的に、何故このタイトルなんだろうと訝りながら頁を捲ることになります。

 そして、この謎も十分に熟した頃、ようやく「嵐」の文字が出てきます。

 「たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物凄く響けて来てゐた。

 『家の内も、外も、嵐だ。』

 と私は自分に言った」と。

 関東大震災を考えなくても、もちろん、外はいつでも嵐ですが、子どもが小さい頃、家の中も、毎日が戦争、と言って不適切なら、非常事態で、内も嵐なことはたしかです。

 思い起こせば、我が家でも、自宅の床には、あらゆる体液がシミを作っていましたし、御自慢だった5.1chのホームシアターシステムのDVDのスロットルからは、しまじろうのカードが出てきたり、買ったばかりのパソコンに花瓶の水をたっぷりかけられたりと、その被害は枚挙にいとまはありません。特に、思い出深いのは、元々一人乗り用のバギーに長男の上から次男を突っ込んで保育園に登園しようとしたところ、バギーのシャフトが折れてしまって、土砂降りの雨の中車輪が転がらなくなってしまい、傘もさせずに、バギーを両手で抱えて、スーツを着ているのに朝からずぶ濡れになりながら、保育園まで運んで行ったことや、機嫌が悪くなった時に、長女が使う最終兵器ゲロ噴射を飛行機の中で頭から浴びたことなど、今となっては、どれもいい思い出でではありますが、やはり、当時辛かった出来事の方をよく記憶しています。

 この辛かったことが、時間の経過の中で、いい思い出となる、むしろ、「墓地」のような人生の中で、明日に向かう力になる不思議を「嵐」は、曰く言い難い霊妙な筆致で、子どもの成長と自立、その裏側にある自分自身の変化と成長、そして、自らの精神の自立として表現されているところに普遍的な価値と深い感動があるように思います。

 島崎藤村の作品は、青空文庫ですべてを味わうことができますが、ここでは、最後の部分を引用します。

 「私はそういう自分自身の立つ位置さえもが ー あの芸術家の言い草ではないが、いつのまにか墓地のような気のして来たことを胸に浮かべてみた。過ぐる七年のさびしい嵐は、それほど私の生活を行き詰まったものとした。

 私が見直そうと思って来たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上がる時が、どうやら、自分のようなものにもやって来たかのように思われた。」

 「『行ってまいります。』

 茶の間の古い時計が九時を打つころに、私たちはその声を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行った。いつのまにか次郎も家の外の路地を踏む靴の音をさせて、静かに私たちから離れて行った。」

 

P.S.

 今日仕事のために必要があって、2021年6月発刊の藤木美奈子さんという自らもサバイバルしてきた著者による「親の支配 脱出マニュアル」という「心を傷つける家族から自由になるための本」を読んでいたのですが、家の内が、「嵐」であったままの「育ちの傷」を負った人の姿と、その回復のための苦闘をほんの一部ながら学ぶことができました。

 弁護士であるぼくは、関係者のためにも、「育ちの傷」を正確に認識し、正しく対応ができなければいけない、と同時に、「嵐」のような物語に感じることのできる心を失わずに生活を送りたいと思います。

 

PP.SS.

 話題の桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎 - 「時代遅れのRock’n’Roll Band」 でも、「子供の命を全力で 大人が守ること それが自由という名の誇りさ」と謳われていて、ドキッとする箇所になってますね。この歌の出だしには「平和」という言葉も使われ、全体としては、ウクライナに端を発しているように思うのですが、字義通りの戦争でなくても、戦争はありますよね。ここでも、やはり、より普遍的なことが謳われているように思います。

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福助くん

 次男が生まれたとき、最初長男と同じ保育園に入れなかったことが、(登園のために)車を買わざるを得なくなったきっかけでした。

 排気量の割にコンパクトで小回りの効く感じがしたことに加えて、前列が3人がけて、両親の間に子どもが座れるという特等席のあったことが決め手になって、エディックスを購入し、”福助”と名づけ、以来、特に故障もなく助手席を満喫してきました。

 当時は、まだ、FOMAの時代で、30Gあったハードディスクに、CDを厳選して音楽を入れ、携帯で繋いで、楽曲のデータも入れ、自分だけの車内ライブラリ作りを楽しんできました。

 その後は、iPhoneの時代になり、さらには、iTune、Apple Music の時代になって、音楽は配信で無尽蔵に楽しめるようになって、旅に向かう自動車の中でも専らプレイリストを作ってかけるようになりました。

 謝恩会でも、なんでも、楽しい集いに相応しいプレイリストの中心は、いつもビートルズの楽曲です。歌詞がぴたりと合っているので、自分の結婚式でもかけてしまったこともあって、Ob-La-Di, Ob-La-Da などは、いつも聞きたくなります(ポールの2017年春のワン・オン・ワン ツアーも、次男の誕生日プレゼントとして、東京ドームで家族みんなで楽しみましたが、Ob-La-Di, Ob-La-Da のイントロのピアノが鳴ったとき、歓喜のために、思わず横にいた次男と手を叩き合ったことをよく覚えています。)。

 2019年の映画イエスタデイでも、エンドロールで使われていましたが、Ob-La-Di, Ob-La-Da は、歌詞のとおり、幸せな家族そのものの体現のようで、福助くんをお供にした数え切れないほどのお出かけの中で、いつもそこにビートルの楽曲が、そして、Ob-La-Di, Ob-La-Da が流れていました(お調子者の次男は、サビにくると、長女と一緒に、「オナラ」「オパピ」と車内で歌っていました。)。

 そして、次男も、今年は17歳になり、土日も部活に集中していて、親と一緒に出かけることもなくなり、この度福助くんもついにお役御免になりました。

 ポールは、今年6月18日には80歳になり、でも変わらず全米ツアーを続けています。最近は、YouTubeのおかげで、セットリストどころか、先週はここ、今日はここと、すべての公演で、開演前の様子から、すべてのパフォーマンスがそのままアップされていて、A Day in the Life のアウトロで幕を開け、一曲目の Can't By Me Love から本編最後の Hey Jude 、アンコールの1曲目で、ジョンとハモる、 I Got A Feeling を経て、The End まで全36曲、変わらぬ元気な歌唱のすべてを居ながら堪能できてしまいます(16日には、ブルースまで、The End のギターバトルに飛び入りしていました。)。そして、みんな観ている人がアップしているので、撮影者の周りで、家族で一緒に、歌ったり、踊ったり、楽しんでいるところが同時に配信されていて、そこに、一つ一つの家族の様が写り込んで、おじさんでも、女の子でも、みんながポールの曲を大声だして、時には、ポールとポールの楽曲と一緒にこれまで歩んできた道のりに感無量になって、思わず泣きながら、歌っている様を見るだけで、何かじんと来てしまい。ついには、人生を肯定してみてもいいような気になってしまいます。

 Ob-La-Di, Ob-La-Da Life goes on, bra

 La-la how the life goes on

 福助くん、ありがとう。

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Dark Waters

 Apple TV で、映画 Dark Waters を観ました。昨年日本でもようやく規制されることになったPFOAなどの化学物質による土壌や河川、飲料水などの汚染被害を扱った実話に基づく作品です。

 シン・ウルトラマンのように、そこいら中の人が発言している映画ではないですし、でも、とても考えさせられたので、ここにも書いておきたいなと思いました。

 考えさせられた第一は、メディアの違いです。劇中に描かれたマスメディアの報道姿勢もそうですが、そもそも、このような映画が制作できること自体が驚異ですね。(日中戦争の最中に「風と共に去りぬ」を観て、こんな国と戦争したら敵わないと思ったと言っていた方がいらっしゃいましたが、)日本映画には到底覚束ないリアリティです。そもそもデュポンや3Mといった企業名や、テフロン(加工)といった商品名まで、全部実名で、驚かされます。すぐに毎朝新聞とか出てくる日本の映画には、森友学園とか、加計学園なんて名前を出すこと自体あり得ないことでしょう。

 考えさせられた第二は、メディアの在り方の違い以上に開きのある司法の違いです。弁護士がどんなに頑張ったとはいえ、所詮雌雄を決するものは裁判所(の判断)です。訴訟の前の資料の開示手続きによって、大量の資料が出てくる様や、裁判官が公正中立な第三者として権力にも一切動かされることなく、正義の剣を翳す様は、私たちの心の中にある正義の化身そのものです(主人公の弁護士やその所属する法律事務所が日頃企業側の立場に立ち、いわゆる括弧付きの人権活動を行っていない法律家たちであったことも物語に深みを加えているように思いました。)。

 そして、何より、この映画は、映画として、優れています。筋から言えば、この映画は、事実に基づく告発の話であり、公害企業の醜さ、そこで傷つけられた人々の身体と心、その救済の物語を軸とするものではありますが、それだけでは、映画として一流になるものでないことは当然です。

 黒澤明は、独立したら、いきなり儲けに走ったと言われては心外だからということで、黒澤プロダクションの一作目の作品として、政治汚職というシリアスな題材を扱った「悪い奴ほどよく眠る」を撮りましたが、ここでは、汚職の闇自体の不気味さや、サスペンスとしての娯楽性に加え、(悪をもって悪を倒すことはできるが、)果たして、善をもって、悪を倒すことはできるのかという主題(三船敏郎と香川京子の抱擁の場面に集約されています。)が設定され、最後に、この主題を肯定できなくなるという落ちを用意してドラマに深みを与えました(私たちの苦い気持ちを象徴するかのような潰れた自動車のカットに極めて映画的に表現されています。)。政治汚職の映画だからといっても、それだけを描いていては、5年もすれば、事件と同様忘れ去られてしまうことでしょう。

 その点、ダーク・ウォーターズは、実話に基づく弁護士の話というだけでなく、人間のドラマとして普遍性があります。主人公の弁護士の葛藤や体調の不調はもちろん、その家族の反応や、同僚との関係、依頼者との困難なやり取りなど、実に丁寧で、腑に落ちるところばかりでした。

 そして、もう一つ付け加えるならば、この人間のドラマを盛り上げるための音楽の使い方の素晴らしさを上げることもできると思います。途中出てくるジョン・デンバーのカントリー・ロードなどは、黒澤が、(映像と音楽の)対位法と名付け「野良犬などで多用していた手法と同じで、完璧にはまっていますし、エンドロールに流れる音楽もこれ以上のない選択ですね。> 誰も知っている有名な曲の有名な歌唱ですが、ネタバレになってしまうので、ここでは敢えて伏せておきたいと思います。

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耳順

 土曜日の午後、先月から高校生になった長女に、義母のお得意の料理の一つで、朝サラダの上に乗せて食べるととっても美味なスライス玉ねぎの酢漬けの作り方を教わり、自分でも作ってみました。ほんの5年程前は、まだ小学生で、夕食のお味噌汁だって毎日ぼくが作ってましたが、今では料理の方は完全に敵わなくなってしまいました。

 ぼくが小学生の頃は、学研の科学と学習という雑誌を毎月楽しみにしていたのですが、その中にあった、「ヤングとオールド」というコラムのことを、(多分強く共鳴したからでしょうけど、)50年も経った今でも、よく覚えています。その要旨は、人間は若いうちは、柔軟で、新しいものもよく受け入れることができるが、歳をとると、だんだんと頭が固くなり、保守的になって、自分の経験したことのない新しい出来事に対し拒否反応を示すようになる。だから、未体験の事柄を面白がることのできる人は、実年齢に関係なく、若いのだというような文章でした(背景にたしかチンパンジーだったか、ゴリラだったかの写真が使われていて、2001年のオープンニングのように妙に印象的でした。)。その発想って、今考えると、あの頃より、今の方がずっと若いと謳うディランの My Back Pages と同じ指向ですね(原詩は、Ah, but I was so much older then. I'm younger than that now. です。)。

 せっかくなので、前回も書かせてもらった論語の「耳順」の話に戻ると、みんないい加減歳をとってきたせいか、自分のごく身近な周辺でも、新しい事象に対し、拒絶的な態度を採る人が増えているような印象を持っていて、そこにその人の精神の柔軟性や、好奇心の減退を見せつけられたように思ってしまい、それがまるで避けられない運命でもあるかのように自分にも響き、そして、萎えてしまうことが多くなったと感じています。

 そんなとき、思想を「五十而知天命、六十而耳順」と年齢で表現した孔子の言葉がぼくを捉えました。オールドと呼ばれるような年齢のもたらす自分の成熟が、「耳順」、つまりは、自分の以外のものに開かれるなんて、なんて素敵なのでしょう。そこには固さはありません。しかも、只開かれているというだけでなく、年齢が、歳を重ねることが、開かせたというのです(その前に、天命を知った、つまりは、自分の柱があることが、前提になっているのでしょうけれど...)。

 ちょっと前まで、年齢を身体だけで考えていたことに、ただ、恥いるばかりです。

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読書の習慣

 ぼくのブログでは、ずっと都度つどに聴いている音楽のことばかりを書いてきました。朝起きてから夜寝るまで音楽を聴いていることは昔から変わりがないのですが、コロナ禍で、もう一つ習慣が増えました。それが読書で、それを支えてくれているのが電子書籍です。

 レコードと同じで、本も出会のときめきのうちに手にしたいのですが、書店や図書館に毎日通うことはままなりません。この気持ちと時間の隙間を埋めてくれるのが電子書籍で、現在では、古典的な書籍や、最新刊であれば、まず思い立ったときに購入することができます。その他にも、電子書籍の良いところを並べれば、保存や持ち運びに場所を取らず、結果すべての本を、iPhoneや、iPad で常に持ち歩けるため、信号を待っている程の隙間時間にすら読めること(というよりも、いつでも何度でも繰り返し触れることのできるサブスクカルチャーの環境に飼い慣らされた昨今、むしろ、時間を限ることで、対象に対し真剣に向き合うことができるようにすら感じています。)、画面の読み上げ機能を使って、画面から目を離していても、皿洗いしながらでも読書できること(さらに言えば、Audibleのように、朗読主体のサービスまであったりする訳です。)、文字の大きさを変えられ、読み易くしたり、難読文字を確認できること、難解な言葉の意味や用法を立ち所に調べることができることなどいくつも挙げることができますが、電子書籍による読書生活を考えると、その前提となるデバイスの進化を語らない訳にはいきません。2022年の今ぼくの使っている、iPhone は 13Pro、メインの iPad は Mini6 で、その画面の美しさは、紙の本と遜色ありませんし、むしろ、夜就寝前の読書などを考えると、暗いところでも読めるのは、電子書籍ならではです。小学生の頃から眼鏡をかけていたぼくがどんどん音楽の方に流れてしまい、年相応に読書に熱中できなかったことの根底には、眼が悪いという問題があったように思うのですが、眼が悪くても読みやすいという電子機器の長所が今頃になってぼくに読書の愉しみという人生の恩恵の一つを齎してくれているように思います。

 勿論心理や社会問題、経済問題や法的な問題など業務に直結する分野でも、本はぼくに知らなかった大切な知識を植え、ぼくの知見を耕してくれますが、音楽を聴くのと同じで、やっぱり心の渇きを癒してくれるのは、人間の生き方に関わる文学作品や哲学書ですね(反対に、全く楽しめないのは、自己啓発書の類ですかね。)。

 論語ではありませんが、「学べば則ち固ならず」で、優れた書物は、ぼくの精神を息返えらせてくれ、また、新しく世界を見ることを許し、(こんな歳で口にするのも憚られるところではありますが、)自分自身に成長の確かな手応えを与えてくれます。

 論語は、どこから読んでも、本当に刺さる言葉の塊ですが、極最近では、還暦について、「耳順」と語っているところなどに強く惹かれています。

 いい歳をして、すっかりその知見にやられてしまい、このところ次々と様々な論語の本を手にしたせいで、今 ibooks 内の自分のライブラリーを「論語」で検索しただけで、12冊も齧っていたことが判明したような次第ですが、あれこれ様々な論語に親しんでみて、最近一番手に取ることが多いのは、どちらも齋藤孝さんの編になる「声に出して読みたい論語」と「声に出して、わかって、おぼえる!小学生のための論語」の2冊です。齋藤孝さんは、コロナ以前に次男の通っている学校で毎年父母会が企画する講演会に登壇されたことがあり、生でお話を伺い、短時間ながら、その世間の常識にとらわれない人柄にも触れたことがあるのですが、ご自身認めていらっしゃるように小林秀雄さんからの影響なのか、著作の中でも常々身体性ということを強調されていて、腹から声を出すということに拘りを持っていらっしゃいます。この身体で覚えるということは本当に大切なことだと思うのですが、上記2冊とも、発声を前提に丁寧にルビが振られています。また、レイアウトも綺麗な上に、原文もしっかり引用されていて、原文を見ながら、読み下しの発声をすることができるのです(たとえば、安富歩さんの本なども、論語の解釈として、とても貴重なものだと思うのですが、本文中に訳文しかついていないのは残念です。)。

 

P.S. ついでなので、電子書籍で改善して欲しいところも2点挙げておきます。1点目は、(フォントのサイズや字体を自由にできることは、電子書籍の利点なのですが、)紙の書籍と同じレイアウトで、同じ頁数で表示されるモードも用意して欲しいということです。これは紙の書籍での頁数が色々な局面でしばしば引用されることがあるために参照の便宜を図ってほしいという意図です。

 2点目は、筆者にサインをもらうスペースを用意して欲しいということです。これは意外に筆者の目の前で書籍を購入するが多いのですが、その際にサインをもらいたくても電子書籍には、書く場所なくて残念だったことがこれまで何度もあったという実体験に基づくお願いです。実現したら、さらに素敵なのにと思っていますし、販促にも貢献すると思います。 

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5月の音色

 自分のブログを見ていると、年末年始か、ゴールデンウィークにしか書いておらず、如何に余裕のない毎日を送っているのかが、そんなことからも分かります。

 4月に長男が大学生になり、お祝いに昨年購入したばかりのM1のMacbook Airをあげることにして、それを口実に自分にはM1の13インチMacbookProを購入しました。

 Airも初代の時から驚くような音質と音圧で、パソコンで音楽を聴くという体験をまったく異次元のものにしていましたが、今回の13インチのProも流石Proで、一聴してAirとははっきりと一段違う音質を奏でるスピーカーを持っているのが嬉しいです。私のように、ゴールデンウィークでも気がつくと一日の大半の時間キーボードに触れているような生活を送っている人間にとっては、目の前のキーボードの脇から溢れる音の質は、そのまま生活の質に直結するのです。

 勿論機材の進化はMacだけではなくて、2016年頃から、民族音楽寄りの音楽で、アコースティックな楽器、特に、ギターやピアノの様にアタックのある楽器の音色を美しい原音のままに捉えた録音が増えたように思います。すぐに思いつくものだけを挙げても、Joe Henry プロデュースで CHELY WRIGHT が You are the River と謳う I Am the Rain や、The Gloaming の一連のアルバム、特に、2018年のライブアルバム、そして、Birds of Chicago の Real Midnight といったアルバムは、何度聴いても飽きることなく、楽曲やパフォーマンスの素晴らしさだけでなく、その楽器の音色がいつ聴いても耳のご馳走に感じられます。

 いずれも、甲も乙もないのですが、風にみどりの薫りが漂う今の季節には、ミナスと呼ばれる一連のブラジル音楽などは、最高の相性が発揮されます。

 ギターとピアノの兄弟デュオ、Duo Taufic がミナス出身の女性歌手 Paula Santoro と組んで、2018年に発表した Tudo Será Como Antes は、複雑で洗練された印象の中南米音楽の中でも、殊更手が込んでいて、高級感に溢れており、一級の工芸品に触れたような感覚に打たれます。ドビッシーやプーランクの歌曲が好きだという人には、間違えなくおすすめできます。

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