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 一つ前の記事で、Ob-La-Di, Ob-La-Da のことを書いていて、連想ゲームのように、自らの家庭に取材し、父子家庭の子育てを綴った藤村の「嵐」を思い出していました。あちらは、自動車の話でしたが、こちらは、お家の引越しの話です。

 この小説、背比べの場面から始まって、とても穏やかに家族の日常が淡々と描かれていくので、最初読み進めるについて、必然的に、何故このタイトルなんだろうと訝りながら頁を捲ることになります。

 そして、この謎も十分に熟した頃、ようやく「嵐」の文字が出てきます。

 「たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物凄く響けて来てゐた。

 『家の内も、外も、嵐だ。』

 と私は自分に言った」と。

 関東大震災を考えなくても、もちろん、外はいつでも嵐ですが、子どもが小さい頃、家の中も、毎日が戦争、と言って不適切なら、非常事態で、内も嵐なことはたしかです。

 思い起こせば、我が家でも、自宅の床には、あらゆる体液がシミを作っていましたし、御自慢だった5.1chのホームシアターシステムのDVDのスロットルからは、しまじろうのカードが出てきたり、買ったばかりのパソコンに花瓶の水をたっぷりかけられたりと、その被害は枚挙にいとまはありません。特に、思い出深いのは、元々一人乗り用のバギーに長男の上から次男を突っ込んで保育園に登園しようとしたところ、バギーのシャフトが折れてしまって、土砂降りの雨の中車輪が転がらなくなってしまい、傘もさせずに、バギーを両手で抱えて、スーツを着ているのに朝からずぶ濡れになりながら、保育園まで運んで行ったことや、機嫌が悪くなった時に、長女が使う最終兵器ゲロ噴射を飛行機の中で頭から浴びたことなど、今となっては、どれもいい思い出でではありますが、やはり、当時辛かった出来事の方をよく記憶しています。

 この辛かったことが、時間の経過の中で、いい思い出となる、むしろ、「墓地」のような人生の中で、明日に向かう力になる不思議を「嵐」は、曰く言い難い霊妙な筆致で、子どもの成長と自立、その裏側にある自分自身の変化と成長、そして、自らの精神の自立として表現されているところに普遍的な価値と深い感動があるように思います。

 島崎藤村の作品は、青空文庫ですべてを味わうことができますが、ここでは、最後の部分を引用します。

 「私はそういう自分自身の立つ位置さえもが ー あの芸術家の言い草ではないが、いつのまにか墓地のような気のして来たことを胸に浮かべてみた。過ぐる七年のさびしい嵐は、それほど私の生活を行き詰まったものとした。

 私が見直そうと思って来たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上がる時が、どうやら、自分のようなものにもやって来たかのように思われた。」

 「『行ってまいります。』

 茶の間の古い時計が九時を打つころに、私たちはその声を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行った。いつのまにか次郎も家の外の路地を踏む靴の音をさせて、静かに私たちから離れて行った。」

 

P.S.

 今日仕事のために必要があって、2021年6月発刊の藤木美奈子さんという自らもサバイバルしてきた著者による「親の支配 脱出マニュアル」という「心を傷つける家族から自由になるための本」を読んでいたのですが、家の内が、「嵐」であったままの「育ちの傷」を負った人の姿と、その回復のための苦闘をほんの一部ながら学ぶことができました。

 弁護士であるぼくは、関係者のためにも、「育ちの傷」を正確に認識し、正しく対応ができなければいけない、と同時に、「嵐」のような物語に感じることのできる心を失わずに生活を送りたいと思います。

 

PP.SS.

 話題の桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎 - 「時代遅れのRock’n’Roll Band」 でも、「子供の命を全力で 大人が守ること それが自由という名の誇りさ」と謳われていて、ドキッとする箇所になってますね。この歌の出だしには「平和」という言葉も使われ、全体としては、ウクライナに端を発しているように思うのですが、字義通りの戦争でなくても、戦争はありますよね。ここでも、やはり、より普遍的なことが謳われているように思います。