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あの頃、マリー・ローランサン

 気づくのが遅くて、もう終わってしまうところでしたので、先日の日曜日慌てて、体の空いていた娘とアーティゾン美術館マリー・ローランサン展を観に行ってきました。

 それも時間がなくて、僅か2時間余りの時間しかなかったで、どこまでも通り一遍の鑑賞でしたが、美術館を出る頃には、実に頭がぐったりしてしまうほどの疲労感と充実感を覚えました(普段、起案などしていても、なんか耳が寂しくて、音楽をかけ、それでも足りなくて、何か番組をつけてしまう習性とは、真逆な状態に没入していました。)。

 コロナ禍だったこともあってブリジストン美術館が新しくなってから訪れたことすらなかったのですが、まず、美術館の志向するところがとても素敵でした。たとえば、絵にどこまでも近づいて間近で見つめることのできること(写真も撮り放題なこと)、そのことを担保するため、ネットでチケットを販売し、同時刻の入場者数を制御していること、スマホアプリを用意して、音声解説を導入し、絵の周りからは極力解説を排除し、できるだけ絵画そのものに集中できるように配慮していることなど、どれも今時で、絵を本当に楽しみたい人にとって共感できます。

 そして、何より、ローランサンと同時代の画家たちの圧倒的な絵画です。セザンヌも1枚ありましたし、おしゃまな構図のルノワールの1枚は、何か本質的に繋がってものがあるのか、娘のお気に入りになりました。ローランサンは、代表的な作品がいくつも観られただけでなく、習作的な時代からローランサンがローランサンになって行く過程が何より強い印象を残しました。ぼくには、強い赤い色の入ってくる1930年代以降の作品群より、20年代の、彼女の意匠となっているパステルカラーに埋められているものが、その人格の本質を映しているように思えました。

 

 実は、ぼくがその人物を知ったのは、学生時代に聴いた加藤和彦の表題のアルバムでした。加藤さんの音楽は、そのデビューから、ミカバンドを経て、ソロの最後まで一貫したセンスの良さでぼくを魅了してくれましたが、特に、パパ・ヘミングウェイ以降の一連の作品に格別の愛着を覚えます。

 あの頃、未だ、20代だったぼくには、どちらかと言えば、未来しかなかったはずですが、その時から、何か過去に向かうノスタルジックな気分は決して悪くないものでした。そして、安井かずみの紡ぎ出す言葉たちと相まって、今や、あの頃は、今の自分を支える大切な糧になっていると思うのです。